2006-03-01から1ヶ月間の記事一覧
第5回沖縄市長杯高校バスケットボールおきなわカップ(同実行委員会主催)が3月25日・26日、沖縄県総合運動公園メーンアリーナで開催され福岡大大濠が優勝した。今回、初めて外国チーム(台湾)が参加し、大会内容も関心が集まった。(結果は以下のと…
3月21日(火)第29回全日本アンサンブルコンテスト/(社)全日本吹奏楽連盟主催が岩手県で開催され九州代表の沖縄市立美里中学校アンサンブル代表が見事金賞を受賞しました。 同大会は県予選に続き全国11ブロックの選抜で勝ち抜いた団体が参加しており…
字知花知花原、美里中学校の西側約100メートル、個人住宅地内にある。アガリガーは知花の村建て以来、水質は余り良くなかったが村人の生活用水の重要な供給源であった。そればかりでなく、子供が産まれて名前をつける、いわゆる「ナージキー」の時にはそ…
字知花後原、国道329号線を知花城址向けに7~80メートルほど行った所の右手、知花解体所に隣接している。ユナガーは「ヌールガー」とも呼ばれているように、その昔、ノロが使っていたことからその名がついている。また、ユナガーから溢れて下方に流れ出…
字知花後原、知花グスクの東方50メートル、農道沿いにある。自然に涌き出ていた泉で、この辺に「ウフンダカリ」村があった時から戦後まで使用されたが水質は余り良くなかった。もともと石積みてであったが、昭和18年金城徳さんが区長時代に井戸(チンガ…
字知花後原、知花グスクの南西、ウフガーラとワタンジャーガーラとの合流地点近くにある。隣接して県企業局のポンプ場がある。もとは松本村(大村渠村)のウブガーであったが、松本が現在地に移動して以後は知花の村人が使用したので、現在では知花が拝所と…
字知花後原、当山のシチャヌカーともいい、知花高橋の下流およそ100メ-トル、屋号、当山の後ろあたりにある。石積みはなく、ウフガーラの土手の下から湧いていたが、川の水が混入するので飲み水には利用されず、クディングワが着物を洗濯した場所と言わ…
字知花当原、メーヌカーガー橋の西方約100メートル、新しいシチャウジュンガー橋のすぐ下流にある。背後はゴーチと呼ばれる風水山であった。知花で一番立派な石積みの泉で、水量水質共に優れ、戦前から戦後にかけて最も多くの人々が利用された。お正月の…
字知花原、メーヌカーガー橋に隣接、川の東側にあった。 このカーも石積の立派なカーで比較的水量水質とも良く、付近の多くの人々に利用された。ところが河川工事で川筋が変更され埋没してしまった。そのため、現在ではマンホールのような形だけの拝所となり…
知花ムラの古島である福地原(現倉敷ダム付近)には知花の祖先の人たちが利用し、大変恩恵をこうむったカーとして「ガマンメーヌカー」と「カディカルガー」のニか所があった。部落や門中のカーメーには現地まで行って拝むことは容易でないので、やむを得ず…
字知花当原、知花高橋の上流約100メートル、屋号新仲元の川向こうにあった。部落の上にあるので「イーヌカー」とも呼んでいる。カーは昔、立派な石積みで水量や水質も比較的に良く、最近までかなり利用された。現在は県による河川改修工事のため埋没消失…
字知花当原、知花高橋の下流約30メートル、川の西岸にあった。以前は立派な石積みの大きな泉であったが、現在では土砂が埋まり位置の確認さえ難しい。従って拝所としての整備もなされていない。水量は豊富であったが、大雨になって水かさが増すと川の水が…
知花のウスデークは代表的な民俗芸能で、豊年祈願と感謝の奉仕の奉納舞踊として昔から継承されてきた。この奉納舞踊は、婦人だけでやる踊りで音頭取りの鼓と歌に合わせたり、右に合わせたり、前進したりしながら、手振りに合わせて踊るゆるやかなテンポでは…
現行の知花臼太鼓(ウスデーク)の歌詞1.〈いりは〉 ◆今年八月や 遊び願たてて やんぬ八月や 良くぬ遊び2.〈すゆいてんざなし〉 ①すゆい天座なし むヽとまで千代まで うまんちゅぬまじり 拝でしりら ②くひなうざしちや うやぐみさあしが うたにまじりてど …
知花には戦前、りっぱな獅子加那志があった。その獅子は屋号仲元の大工仕事をしておられた池原政次さん(清正さんの祖父)がお作りになったものであったか、この獅子は残念なことに昭和20年(1945年)の沖縄戦でなくなってしまった。 戦後、今の古堅の…
戦争前頃の知花村の屋号●旧屋号名( )内は現往者名又は屋号1.新安田栄(三男後堂) 2.前ヌ城間小 3.前 門 4.仲前門 5.前ヌ城間 6.前ン當 7.上ヌ前門(兼本) 8.安田栄 9.前新里 10.樽安里 11.仲松尾 12.東兼島 13.兼 島 14.後兼(前新里) 15.具婦 16.樽安里小 17…
根 屋 部落には数軒の根屋がある。オホンダカリ、中大屋、島袋、グーフ、前ナーカ、チハナク等である。そのうち「オホンダカリ」、「島袋」、「中大屋」、「前ナーカ」での見聞を出してみることにする。 (1)「オホンダカ リ(大村渠)家」は、部落の西側後方…
美里村史(1952年発行)によると、知花の始祖は、今から約550年前、北山(今帰仁城)が滅びた時、宇久田(奥田)、大工廻(柵柵)、古謝の始祖と一緒に、戦乱を逃れて国頭から福地原(石川市楚南区の西南方)に移動してきた。福地原には泉があるが、知花区民は…
ニーガンウカー(根神御泉)の伝説 知花村以前にあった「オホンダカリ村」のウブガーと言われている。昔(現在60歳代の人たちの祖父の時代の話)御泉が洪水で埋没し、人々にその名が忘れ去られた頃、知花の若者たかが相次いで死去した。それは「御泉の埋没し…
金城山助じいさんは明治14年生まれである。1968年に米寿を祝われ、その後も達者でおられる。ここに少々まとめた話はそのころ聞いたものである。三助じいさんの屋号は「後大屋(クシウフヤ)」である。近所には有名な「知花焼窯」の跡があったといわれ、川沿…
山を巡視した時の話 「山勝負」のとき、楚南・山城との境界の山めぐりに3名で出かけたことがあった。すると知花区域の山から赤染木(シャリンバイ)の皮を剥いでいる男たちを発見した。相手は山城部落の者たちで3名だった。ここも3名で、結局1対1で相手を…
仲大屋(ナーカウフヤ)の東隣りに建てられウフデーク(ウスデーク・臼太鼓)の時には旗頭と獅子舞の踊りが奉納され、獅子舞たちは知花公民館(アシビナー跡)へ向かって出発する。(昭和55年6月完成。村神屋の移設分祀(ブンシ)
鬼大城の墓の東側に位置する。村人は「ヌールバカ」と呼んでる。岩陰を利用して前面を石積みにし、墓口をアーチ工法にしている。墓の形式は、名嘉真好史宜勝分類のいわゆる「岩穴囲い込み墓」である。ある葬式の時にヌールバカへ入った村人は、約30基の蔵…
知花グスクの南側の丘陵地に位置する。大城賢雄は大柄で武勇にすぐれ、俗に鬼大城と呼ばれた。1458年、首里王府軍の総大将として勝連按司の阿麻和利を討伐し、その功績で越来間切の総地頭に命ぜられた。その後の政変で第一尚氏王統は滅び、鬼大城も知花グ…
ヌルの話 知花のヌル(ノロ)は屋号チハナク(仲村姓)という家から出ているが、若いというので祭祀に出ていない。チハナクの話では同家の娘が最初のヌルを拝命したが、若かったのでその兄が道案内をしたことから例になり現在に至っている。その兄の役はミッ…
グスク時代から近世にかけて形成された「村落発祥地」のことを古島「フルジマ」とか元島「ムトゥジマ」と言う。知花の古島は現在の倉敷ダム管理棟の北側一帯に位置する。 古老の談では、ここから南側約3km離れた知花グシク近辺に農作業を行うため通ってい…
はじめに 知花は、コザ市(現沖縄市)から石川市に通じる道に嘉手納町から具志川市方面への道が交差し、地理的な要衝の地として、また知花焼の古窯跡として、さらにその昔は鬼大城(大城賢雄)の終焉の地として知られている。 この部落で、数年前ノロ継承を…
祭場と神職 「琉球国由来記」を見ると、知花にはカナ森、森山嶽、カナヒヤンノ嶽の3つの御嶽があるが、仲松氏によれば、「森山」は単なる森ではなく、久高島のムーヤマと同様「喪山」、つまり古墳地帯を意味するらしく、知花グシクの西北方にある。ヌンドン…
まつりの経過 まつりは13日の午後ウンサク(神酒)の米を浸す時から始まる。その時から堆廏肥のあつかい、針仕事などは忌まれている。 5月、6月のウマチーは互いにまつりの方法は似ている。ただ異なるのは、5月には神に供えるシロマシが出る点である。…
知花グシクの北側に位置する。この広場は旧暦の5月15日と6月15日の行事に知花の古島へ遥拝するために拝まれる。その行事に参加する集落は、池原・登川。知花・松本である。現在の建物になる前は、かやぶきであった。かやぶき以前には建物がなく、祭り…